長谷堂城の戦い
こんばんは、チェスです。
昨日の記事の続きです。
大河ドラマ「天地人」の主役、皆様ご存知の直江兼続は、上杉景勝の右腕とも言われた重臣で、その行政手腕は関白秀吉をして「是非引き抜きたい」と思った程でした。
が、野戦指揮官としての才能はどうだったのでしょうか。
1600年、上杉討伐のために小山まで来ていた徳川家康は、西で「石田三成挙兵」の報せを受け、直ちに西へ取って返し、上杉を討つべく集結していた家康陣営の東北の諸将はみんな自分の領地へと戻ってしまいました。山形の最上義光は、孤立無援になってしまったのです。
上杉からみれば、自分の領地を分断する形で睨みあっていた最上を潰すのには、千載一遇の好機と映ったでしょう。2万5千もの大軍で、直江兼続率いる米沢方面からの侵攻軍と、庄内方面からも同時に侵入していました。
米沢からの直江兼続直卒の軍勢は、1万8千ほど。まずは山形城の西にある畑谷城を攻めます。最上義光はここを守っていた500の軍勢に、城を捨てて山形城へ撤退するように命じていたにもかかわらず、守備隊長はこの命令を無視して玉砕覚悟で応戦。結果、畑谷城は1日で落ちるのですが、上杉軍にも1千人近い損害が出たと言います。
更に上杉軍は、山形城の南を守る上山城、南西を守る長谷堂城を包囲、攻撃に出るのですが、それぞれの城主は勇戦して城は落ちません。
特に、長谷堂城を守っていた最上家家臣の志村伊豆守光安は、巧みな防御と夜襲戦法で上杉軍に出血を強います。小生が長谷堂城遺跡の説明板で見た所では、志村伊豆守率いる城の守備兵は3千~5千と書かれていましたが、実際には1300程度だったであろう、とボランティアガイドの方から伺いました。説明板の解説を書かれたのは東大の偉い先生だったので、間違いと思われる数字も訂正できなかったそうです。
その、多い方の守備兵の数を取ったとしても、その3倍以上の数で攻め寄せた上杉軍は、セオリー通りの戦略で来ていたわけです。城や要塞に立てこもる敵に対して、攻撃側はその3倍の兵力が必要である、というのは、古来言われているセオリーなのです。
にもかかわらず、直江兼続は長谷堂城に梃子摺り、そうこうしているうちに、西では関が原の戦いで石田三成が負けた、という報せが届いてしまいます。
歴史を知っている我々であれば、小さな長谷堂城に関わってはいないで、2千程の抑えを残して山形城へ直進、先に最上の本拠地を落とすという策を取れたのではないかと思ってしまいます。まぁ、無論後からでは何とでも言えるので、あくまでも後知恵ですけどね。
山形城は平城で、あまり防御には向いてはいないと思われます。この時最上側は、伊達の援軍を合わせても7千程度で、直江軍が残り全力でかかれば山形城を落とすことはできたのではないでしょうか。
直江兼続が、野戦指揮官としてはイマイチだったのでは?という評価は、この辺から来るのではないかと思います。
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