後生可畏
こんばんは、チェスです。
やって見せて
言って聞かせて
させて見て
ほめてやらねば
人は動かじ
太平洋戦争に突入してしまった日本において、
「ともかく最初の半年や1年は大いに暴れてみせますよ。だがその後は・・」
とも言っていた海軍の山本五十六大将(戦死して元帥)が言っていたという言葉です。
この人はまた、「今時の若い者は・・などと小言を言わないでほしい。誰にも若い時はあったのだから。」と度量の広いところがあったみたいですね。
それで、本日の記事のタイトルの言葉になるのです。「こうせいおそるべし」と読むそうで、中国の偉大な思想家、政治家でもあった孔子の「論語」に出てくる言葉でございます。
「後生」は「先生」の丁度逆ですね。つまり、自分から見て、後から生まれてきた人のこと。小職の如く、中年にさしかかってしまったおやぢにとっては、若者達はみな「後生」です。孔子さんもまた、山本大将のように、「若い人は、これからどんな風に伸びていくかわからない。無限の可能性を持っているのだから、『若い奴は』などと言う事はできないよ。」とおっしゃっているのですね。
時々報道される悲惨な事件で、親が子供を道連れにして、一家無理心中を図った、というのがあります。親が、今後の人生にも絶望して死んでしまうのは、それだって大抵のことは立ち直れる、やり直しがきくと思うのですが、まぁ百歩譲って、自分が死ぬのは仕方ないとしましょう。
しかし、子供を道連れにするのは、なんと言っても理不尽だし、許せないと思います。
子供は、その親に比較して20年や30年は持ち時間が多いのです。それだけの時間が余計にあれば、どれだけの事ができるでしょうか。そうした可能性を摘み取ってしまうという権利が、親と言えどあるのでしょうか。子供道連れは、全く以って酷いことだと思います。
尤も、先の論語に戻りますが、孔子さんは、「四十や五十になっても大した事をしてなければ、その人はおしまいだ」とも言っていますから、若さに甘えることなく持ち時間を有効に使いなさいよ、ということなのでしょう。
中年以降の人間が「今時の若いヤツは」というのは、実は若い人が羨ましいことの裏返しの感情とも言えるのですね。後先考えずに夢中になってやれる行動力、少々のことではへこたれない体力、困難にもぶつかれる情熱、そうしたものは、歳を取ってくると次第に無くなってきてしまいます。残念ながら。
やがてまた、学校や会社に、新人が入ってくる季節になりました。学校は、元々若い人の集まりですが、会社ですと、新入社員は本当にまぶしい存在です。何せ「後生可畏」なのですからね。
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