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「待つ」ということ-2004.6.14

 こんばんは、チェスです。

 小学生の頃だったと思いますが、
「大人になると、1年が経つのが早く感じるようになる。」
と言われたことがあります。誰に言われたかは覚えていませんし、複数の人から言われた様にも思います。
 1年は誰にとっても1年であり、早くなったり遅くなったりするのはおかしい、と思いました。特殊相対性理論、などというものを持ち出すことはしませんでしたが。
 ところが、いざ自分が、いい年齢になってみると、確かに1年の経過が早く感じる様になります。

 これはまぁ、良く考えれば当たり前のことのようです。

 私の寿命を、仮に70年としましょう。小学2年生になった時点では満7歳ですから、7/70で、全体の1/10しか経過していません。寿命の消費の経験が1/10なのですから、まだまだ先の方がずっと長くて、1年も長く感じることでしょう。
 しかし、来月チェスは満42歳になってしまいます。42/70で、全体の6割を消費してしまい、残りは4割ほどです。消費経験がこれだけ長く、最早寿命は半分残っていないとなれば、早く感じるのは無理もありません。

 これは、年齢とともに「待つ」ということが少なくなったのと、深い関係があるのではないでしょうか。
 「待つ」というのは、結局「時間の経過が早くなれ」と願う心の持ち様だと思います。無為の時間の経過と言い換えてもいいでしょう。小学生のあたりでは「お祭りを待つ」「夏休みを待つ」「家族旅行に行く日を待つ」「クリスマスを待つ」「お正月を待つ」といった具合に、長いスパンで待つことをやっていたように思います。
 ところが今では、そんな悠長な心持ちはありません。寧ろ逆で、「しまった、もうこんな時間か」「期限は明後日までか」という様に、時間に追われるという状況です。「時間が足りない」という奴ですね。

 この際、チェスは「待つ」というゆとりを取り戻してはどうかと考えています。簡単に言えば、無為な時間の経過を楽しむ、という感じでしょうか。カレル・チャペックの「園芸家12ヶ月」という本の締めくくりは中々に味わい深いですよ。元の文章が洒脱なのでしょうね。翻訳も大変だったと思います。

「われわれ園芸家は未来に生きているのだ。バラが咲くと、来年はもっときれいに咲くだろうと考える。10年たったら、この小さな唐檜が一本の木になるだろう、と。早くこの10年がたってくれたら!50年後にはこのシラカンバがどんなになるか、見たい。本物、いちばん肝心のものは、わたしたちの未来にある。新しい年を迎えるごとに高さとうつくしさが増していく。ありがたいことに、わたしたちはまた1年齢を取る。」(小松太郎 訳)

 この本はかなり昔に翻訳されていますが、未だ中公文庫で読めると思います。少し前に紹介させていただいた、紀行作家の宮脇俊三さんも、作品の最後に同じ部分を引用されていました。

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